「事件は会議室で起きるんじゃない、現場でry」
の名台詞と共に社会を賑わせた踊る大捜査線、劇場版第一作の公開から数える事はや12年。
「踊る大捜査線 The Movie 3 ヤツらを解放せよ!」がこのほど公開。
大ファンなので見てきました。
「レインボーブリッジ封鎖できません!」という台詞で有名な劇場版第二作目から数えても7年ぶり。
思えば、方々で「あれってレインボーブリッジの封鎖がいかに大変かってだけの話だよね」という感想が聞こえていたわけですが、
その実、その通りで、あれは「レインボーブリッジ」という巨大建造物に、動かしがたい社会の仕組みや様々なしがらみの象徴を託し、まあある種の「システム」なんですが、それが障害になった時、小さな個人個人が各自の判断で行動する事で、その困難を乗り越える、という話として読み解く事も出来ます。
上からの命令に従属する事無く、現場で働くものたちが自律的に行動する、という話。
「レインボーブリッジ」の犯人グループ、つまりリーダーを持たないで各自が共有された信念に基づいて行動する組織像は、こうしたテーマを「悪」の立場から描いたものだともいえます。
踊る大捜査線といえば、命令無視の型破りで破天荒な青島刑事が、警視庁(会議室)の判断よりも現場を重視し、ガンガン行動していくところにシリーズ通したカタルシスがあるわけですが、「レインボーブリッジ」はそうした対立構造や理念みたいなものを表現するのに的確な舞台装置だったという事も出来ます。
こんな感じで、舞台に意味性を持たせた劇場版2作目。
本作、「ヤツらを解放せよ!」で舞台になるのは、新旧の湾岸署です。
思えば10年以上前、「都知事と同じ名前の、青島です」という自己紹介と共に湾岸署に配属になった新米刑事の青島君も、本作では係長の立場。立派に昇進したわけですが、今回任された仕事は、新湾岸所への移転作業の統括、いわば「引越し」。
こんな実に庶民的というか、大衆的なところに最初の視点を持ってくるのが踊るらしいところですが、今回はこの「引越し」の最中に様々な事件が絡んできて、いずれ大事件に……というお話です。
さて、「踊る」らしさを充分に詰め込んだ本作、勿論ファンには楽しいし、面白い事は当然。
なのですが、今回見ていて、色々と今までの「踊る」になかった要素というか、側面が出てきたような気がします。
おそらく最大のキーワードは、新旧の湾岸署に象徴される「世代交代」。
そしてそれに絡んでくるのは、(ある意味で踊るらしくない)、「生と死」という強烈なテーマ性です。
そういえば、本作のOP、劇場版前二作を見ている人ならわかると思うのですけど、演出が前二作と全く違い、
これまではスタイリッシュな映像演出が印象的だったのですが、本作はどちらかというとドラマ版に近い演出。
この辺、昔を思わせますね。それとは別に気になるのが、「踊る」のテーマともいうべき楽曲が、このOPと、本編の幾つかのシーンをのぞいて、殆ど使用されていないこと。メインの作曲家が変わってしまったんですね。
顔ぶれが代わったといえば、青島係長の周りの面々は、微妙に今回初登場の人もいますし、
内田有紀なんかはドラマスペシャル以来の登場なのに、すっかりグループに馴染んでいる。
和久さんの孫にあたる新人君、室井さんのドラマ版の初登場時を思わせる小栗旬、などなど、
馴染み深いキャラ達と新しいメンツの入り混じりが、今回特徴的です。
新旧入り混じる、といえば、新湾岸署と旧湾岸署を行ったりきたりするのもまさにそれ。
如実に「世代交代」を感じさせます。
と、ここまでは一見普通の舞台設定。
そら10年以上続くシリーズが、「世代交代」を打ち出した事、つまり
「続く」のではなく「終わる」事を語り始めたのは驚きなのですが、本作はこのテーマに、もう一歩深く、潜っていきます。
その要因は、主人公、青島俊作に「お前、もうすぐ死ぬよ」という明確な宣告を与えた事。
健康診断の結果、胸に腫瘍があると告げられた青島。すっかり元気をなくしてしまいます。
ところで、時を同じくして、署長も役職を追われるという噂が流れ出すのは面白い。
とにかく、「世代交代」がフレッシュな面々と、舞台の交代という設定によって強調される中、主人公に死の宣告が与えられる。浮かび上がってくるのは「終わりをどう生きるか」という問題です。
で、青島はすっかりしょげ返ってしまうわけですが。
なんだかすっかり、らしくないというか、元気が無い。
自分からガンガン、イニシアチブを取って動いていく人なのに。
これ、一つの事件ですね(同じ時期に、青島のアイデンティティーの記号みたいになっている、あのコートが盗難に合うのも象徴的)
確か「全ての事件に関係がある」みたいな事を監督が言っていた気がしますが、
ここで起こってくる「拳銃盗難事件」も見逃せない。
拳銃が奪われ、それが殺人に用いられる、つまり自分の所持品が自分の手を離れたところで、
勝手に「利用される」という事態が起こります。
イニシアチブという点で言えば、この事件、青島の自信喪失(自律性の喪失)と重なってくるものがある。
この「利用される」というのは、後々大きなテーマになってくるのですが、ともかく。
死に直面した青島は、まあ何だかんだで回復するのだけど、そこで印象的な台詞を吐く。
「どうせ死ぬんだから、怖いものなんてねえや」
自律性を失い、内向的な感傷に浸って死に向かっていく。そういうキャラクターは今までたくさんいました。
青島は違う。『死ぬ』と分かったら、もう怖いものが無いから、却って生き生きする。
和久さんの言葉として、劇中に使われる「死ぬ気になれ、その時だけ生きられる」という言葉がここに重なります。
そして、本作で「悪」として描かれるキャラクターがいるとすれば、
一連の犯行の犯人、ノライヌ。
実は彼はある人に魅入られて、その人に「利用されて」一連の犯行を引き起こす。
それが映画版一作目で登場した、小泉今日子演じる殺人犯なわけですが、
彼女が「自殺志願者を殺してまわった」事と、その後、自殺を願うものたちによって神格化されたという物語設定は印象的です。
ノライヌは彼女に上手い事「利用されて」一連の事件を引き起こします。
つまり、ノライヌには自律性が無い。
そしてノライヌの周囲の人間が、何処かヲタク的な雰囲気を漂わせている事、
ノライヌに殺された被害者の自宅は非常にヲタク的な装飾に溢れていましたし、秋葉原という場所性にも象徴されるのは、「内向的である」という事ですが、
この「自律性の無さ」、そして「内向的」な性格は、青島が「どうせ死ぬ」という言葉で自身の存在に対しての自信を欠いた時の状態によく似ています。
(キョンキョンとの最初の対話の際、小栗旬にその役回りを一度譲るくらい、らしくなく、投げやりです)
つまり、青島は一度、擬似的にではあるけど、キャラとして自己喪失し、つまり死ぬわけです。
が、そこから仲間に助けられて、這い上がってくる。
それは恩田さんの言葉であったり、和久さんの言葉であったり。
そうして青島が「どうせ死ぬなら生きてやる」と決心を固めた時に、青島のコートが戻ってきます。
一方で、犯人達に代表されるような人々は、
彼らが一作目の犯人、自殺志願者を望みどおり死なせていったあの人を「愛美様」と呼び、神格化し、魅入られて、
ある意味では彼女に『利用されて』犯行を起こすのです。
青島は、そうして事件に向き合うわけですが、そこには死の権化とも言うべき、キョンキョン演じる、一部の自殺志願者達に神格化された犯人の姿がある。
当然、その自殺志願者達に「どうせ終わるなら、誇りをもって生きよう」なんて考えは無いわけです。
或いは、「愛美様」になりたがり、「愛美様」に触れようとする彼らは、「愛美様」という存在に心を奪われるばかりに、自己を見失っているように見える。
「愛美様」が象徴する「死」という存在に「占拠」されたと言い換える事も出来るでしょう。
そんな中、「旧」から「新」へ移行していく湾岸署。
舞台のみならず、メンバーの「世代交代」も様々な演出に散見されます。青島がインターネット掲示板を閲覧する部下に、簡単な助言で障害を取り除かせたところとか。語り伝えられていく和久ノートにもそういうものが感じられます。旧メンバーが新メンバーにてきぱき指示出してるところとかを見ると、なんだか経験を武器に戦ってるという気がして、世代間の差を感じました。特に真下のあの閃きが、交渉課の部下を支えたところ。
そうこうしている間に、新湾岸署への移転はほぼ完了。旧湾岸署はもぬけの殻になりますが、
そこで新湾岸署が、高度なセキュリティシステムを逆手に取った犯人達にによって封鎖されてしまう。
収監された犯罪者達を解放せよ、という犯人からの要求に対して、政府は「今後テロ等の事件が起こった際、法的手続きを行ううえでのモデルケース」として、この湾岸署占拠を「利用」しようとします。
こういうところにも、「利用するもの/されるもの」の関係が散見されますが。
この閉鎖時の恩田さんの呼びかけはまさに「世代交代」と「生と死」という二つのテーマを結びつけるものでした。
この後、実は自分への死の宣告は「間違いだった」と知らされた青島は、仲間達に
「いきなさい」
と送り出されて、全面対決に臨む訳ですが、この「いきなさい」、「行きなさい」にも「生きなさい」にも取れるのですよね。
そして迎えるは、生のイニシアチブを取り戻した青島と、死の権化たる犯人の全面対決。
護送車に乗って、青島と犯人が向かう先は、犯人の指定により、何故か旧湾岸署へ。
このシークエンス、走行するトラックが、トンネル内での分岐で、明るい道ではなく、暗い道へと進んでいくという場面が挟まれるのが象徴的です。
あまり覚えていないのですけど、明るい方の道が上り坂になっていて、暗いほうが若干下りになっていたような。
地下世界、って民俗学的には「死の世界」なんですけども。
旧湾岸署は、これは既に「終わってしまった」空間です。
青島が指揮を執る「引越し」は済んでいて、この空間はもう「役目を終えて」いるのです(世代交代ですね)
青島は、再び「死」へ誘われる。
犯人はこの場所で「死ぬ事」を目的としています。
そしてその「死」が、世界中に広まり、彼女を信奉する人々を覚醒させる、みたいな事言ってましたね。
並べられた爆弾、タイマーが暗い部屋に点滅して、爆弾が棒状という事もあって、これが蝋燭みたいに見えるのですが、まるで儀式の場のようなこの空間で、自分の「死」を誇らしげに語る。
その「死」、終わりは美しいものなんだと。
それに対しての青島の言葉。
あなたの死は、美しくなんかないんじゃないかな、
誇りが無いんだから。
こんな青島の説得が非常に印象的でした。
そうして青島は犯人を確保して、この「死んだ空間」から連れ出してくる。
これが地下から出てくるんですよね。何故か正面玄関からではない。まるで這い上がってくるような映像です。
(「愛美様」と青島は、両方とも人間を知っている、という経験的立場に基づいて対話している事が印象的でした。その意味で両者とも共通項があるのですが、青島は経験と、そして「オレ達の誇り」という言葉で表せる仲間、という人間関係をその背後にもって、「愛美様」に対抗する。一方で、「愛美様」には無数の信者がいるけれど、直接的に関係があったのはノライヌただ独りだけだった、というのは、この二人に生と死の二項対立を読み解く時、明確に浮かび上がる大きな違いかなと思います)
「愛美様」は最後に「ノライヌのようなヤツは、いたるところにいる」みたいな発言を残して連行されていく。
本当に、いたるところにいます。青島の身近にいる、あのいつもPCに向かってる彼、自分もノライヌに似てるって自己申告してましたね。
ただ、最後の最後で、「捜査って、ゲームより面白いじゃん」って、自律性を取り戻したところが、ノライヌと違うところ。
自律性が無くて、内向的な人、死(終わり)を賛美して甘んじてそれを受け入れてしまう人、
自分を見失って暴走する人々は、確かに今の時代、無数にいるわけです。
そういえば、最初の段階で、容疑者が非常に多い(湾岸署のセキュリティシステムを管理する立場にいたのは、大勢の派遣社員(つまり、使われる人々)という事が示唆されていました。
そう考えると、最後、ノライヌを見た時の青島の、
「あれ、君、どっかで?」という言葉が、深い意味を持ってくるように思えてくる。
ある意味では、「愛美様」の時代が終わり、次は無数の「ノライヌ達の時代」が来るのかもしれない。
これも「世代交代」の一つの表れともいえる。
こんな感じで、「世代交代」と「生死」というテーマの関係から見ていくと、
面白い事に、本作はどうも「生き残るものと死んでいくもの」、「生と死の二項対立」的な、神話的な構造を持っているように見えてくる。
じゃあ、「ヤツらを解放せよ!」というタイトル、これはどういう意味なのだろう。
レインボーブリッジを封鎖せよ、は、直接の意味にも取れるし、
レインボーブリッジに象徴される巨大システムに対抗するためには、個人が自律的に動くしかない、というテーマ性も感じさせるタイトルでした。
今回のヤツら、は、
直接的には、ノライヌが解放を要求した、収監された犯人達です。
(そういえば、見ていておもったのですけど、彼らが解放されて社会に戻ったら、青島がこれまでやってきた事は無意味になる、って意味で、これ自体彼の存在価値の消失=象徴的な死に繋がる一つのアイデンティティークライシスですね)
二つ目には、占拠された新湾岸署に閉じ込められた仲間達の事を指していると思われます。
そして三つ目には、「利用される」立場にいる人間達の「解放」をこの作品が大きな主題として叫んでいる、という風にも取れるのです。
つまり、自律性の無いノライヌ、使い捨ての派遣社員たち、政治的判断で割を食わされる現場の人々、といった具合。
所轄と本庁の対立、というシリーズの基本的な構造は今回も健在でしたが、その関係、つまり高圧的な本庁から束縛された所轄、という関係に当てはめる事も出来ます。
あるいは、物語の序盤で「自身の終わり」に捕われていた青島にこの言葉を重ねるなら、「終わり/死」に「占拠」された人々の解放を意味しているのかもしれない。
どういう事かというと、青島の最後の台詞は「生きるっていいなー、空は青いし」と、まるで暗いとこから解放されたかのごとく、晴れやかな表情でそういう事を言ってしまうから。
「死からの解放」という意味性を、この物語に読み取るのは些か早計でしょうか。だって刑事者だし?
問題は、常に一定の社会派的な視点を持ち続けてきた「踊る」シリーズが、本作において、極めて神話的な構造(生と死の二項対立のみならず、死からの救済というモチーフの導入)でもって、世相を語ったところにあると思います。
そういえば、宮崎駿はポニョを作るに当たって「精神病の時代に向けて」みたいな言葉を用いてましたが、
そういう「生と死と、存在に関わる病理」みたいなものが、自殺の時代とも言われる現代の本質的な問題としてある事は確かに実感します。
本作に於いて、その意味で、「生きる」「死ぬ」、その状態に関する言葉が、かなり意図的に、繰り返し用いられていた事は大きい。
今回の「踊る」は、派遣社員やネトゲ中毒、リスク管理システム自体のリスク管理問題、といった今日性の高い問題を扱っているものの、
物語の根幹の部分では、「如何に生きるか」という抽象的な題材を、これまで以上に中心的に捉えて描いています。
従来は「如何に協調するか」というところにあった問題意識が、微妙に異なった形で捉えなおされているところに、これまでの踊ると似ているようで似ていない、異質性の原因があるように思います。
湾岸署は新規一転して新たな時代を生き始めました。旧湾岸署にあるのは、思い出です。
もう昔の踊るとは違う、代わっていくという事が、新湾岸署に象徴されます。
もしかしたら、もう、踊るシリーズはこれで本当に終わりかもしれない。でもそれはそれでいいと、納得の出来る終わり方だったと思います。
旧湾岸署、例えば和久さんの姿はもう無いけれど、彼の言葉と信念は、様々な局面で本作の人物の奮闘を支えていました。
「世代交代」は漸次的な連続性に則った状態の推移であって、それが「終わるもの」と「始まるもの」という単純な二項対立的なもの、
つまり「死」と「生」の関係に似た状態では『無い』という事を、和久さんの言葉と存在は最初から示しているのかもしれないですね、本当は。
だから、最後に「指導員」の腕章が出てきた時、はっと胸を打たれるわけです。
同時に、青島が「指導員」という言葉を見て、自分が今「指導」する立場である事を、それこそ「指導」されるような、そういう関係がそこに見える。
終わってるようで、終わってない、って感じです。
こういう「繋がり」と「断絶」という観点で見ると、もっと色々見えてくるかもしれない。
踊る3は、そういうところに気をつけると、かなり面白いんじゃないかなと思いました。
そういえば、最後の恩田さんの「死ねばよかったのに」。
あのキワドイ台詞を、温かな意味に摩り替わってるところ、凄い、良いなあと思った。
テーマ:今日観た映画 - ジャンル:映画
- 2010/07/06(火) 00:37:07|
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