記号と人間とお人形
![]() | ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書 1883) (2007/03/16) 東 浩紀 商品詳細を見る |
サブカルチャー的文学論。
で、で、で、デカルチャアアアー。
ちなみに僕は「デカルチャー!」の元ネタ知りません。
漫画やアニメやゲームを原動力とした
いわゆるヲタク的サブカルチャーと
それが先導する新しいリアリズムの形、
およびそれに伴う文学への影響、
についての本。
物語そのものの存在意義ってものが薄れてきてるなあ、とは
うすうす思っていたところだけど、この本はそのあたりをずばり詳しく指摘してる。
物語がキャラクターやシチュエーションというものの『入れ物』として機能せず、
キャラクターが全く別の次元に移されて、動かされて、それでいてそれがウケテルっていう。
また、
サブカルチャーに影響される、物語の構造的変化
主にメタ的視点の積極的導入、についても述べてる。
オタクカルチャーでも物語を中核に置く、ラノベ、あるいはギャルゲの
物語の類型化、っていうのはこの本でも指摘されているところ。
キャラクター造形に特に力を入れてる場合が多いけども、
それは「物語的主題を語る上で必要性があるから」ではない。
物語と切り離して、独立した魅力を持つにいたった、あるいは持たされたキャラクターは
物語っていう「入れ物」から取り出されて、遊ばれる。
じゃあキャラクターは類型化してないかって言われると、勿論そんなことは無いけれど
大塚英志が「キャラクター小説の作り方」で述べてるように、
あるいは手塚治がやっちゃったように、
記号化された特徴の組み換え、によって量産されている。
メタと記号、がこの本のキーワードかと。
そもそも、
メタっていうのが僕は嫌いです。
あれは一種の冗談としてやるべき。
ドラえもんの映画のどれかに「のび太は映画になると云々」っていう自己言及的な台詞があるけど
あーゆーのは、作品と観客の感情的接続を切り離してしまうと思うんですよね。
突き放し、っていうか。
凄い、冷める。
まあそこでグッと冷めるのが、ある種の冗談として成立する場合があるのだけど。
エヴァの旧劇場版が全身全霊でやった自己言及、
しょせんこれはウソッパチの物語だ、そんなのに必死になるな気持ち悪い!
と吐き捨てることで、観客に「作品と、それを見る自分」との距離を自覚させた。
物語の方から、観客を「拒絶」する。
あれは当時衝撃的だったし、今でも衝撃的だと思う。
本来あるべき形、登場人物に自己を重ねて、同じ感情を共有して、
物語世界の謎解きに一生懸命になって、っていう事を、
物語自体が「そんな事してないで表出ろおまえら」って言っちゃったのだから。
ところが
オタクってのはマゾなのか何なのか
懲りずに同じような突き飛ばしを求めてるんだろうか。
物語を楽しむ人、と物語そのものの関係を
構造的主題として取り入れた作品が、
ラノベとかゲームで増えてるんだと。
それってある意味では
作品の枠組みの外にある自分について自覚的なわけで、
凄く、冷めてる状態だと思う。
「お前の席、ねーから」っていうのと同じで、
キャラクターに感情移入することを許されず、
第三者的視点で作品に触れていることに自覚的。
で、
都合よく、作品っていう箱の中から、お気に入りのものを取り出して、
外に連れ出して遊ぶ。
同人誌市場、代表的な例としてのコミックマーケットは
年々入場者数を増やしていってる。
この本の著者は、
記号の集合体としての物語、
また「読者」と「作品」の関係性を再定義するような構造の物語が
今後、もっと数を増して、文壇を席巻する可能性もなきにしもあらず、的なことを書いてる。
個人的には、
それに対する危機感より
いよいよオタク文化終わるんじゃね?って危機感の方が強い。
作品に対して凄く冷めてて、
お気に入りの登場人物だけを連れ出して、弄んで、
登場人物が依拠する物語そのものをズタズタに切り刻んでしまう、ってこと自体、
僕はあんまり好きじゃないんだけど(原作厨ってヤツです)
まあこれは昔からあるからいいとしてさ。
メタ的視点が受け入れられてるってことに、
一種の冷めた感じ、うら寂しさみたいなものがあると思う。
作品、言い換えればコンテンツとの距離感を自覚している寂しさ。
しょせんこれは虚構なのだと感じた時の、あのバカバカしさみたいなものが
消費者をオトナに変えてしまうと思う。
その冷静な理性を抱えたまま、一方では
ご執心なキャラで遊んでいる。
この矛盾した感情は、今後、理性的な方向にしか傾かない。
「キャラで遊ぶ」典型としての同人誌市場は発展し続けているけど、
その発展は爆弾的な危うさしか抱えていない。
あまりに多くの人をその流れに巻き込みすぎた。
だから、流れが変わった瞬間、その打撃はすさまじいことになるはず。
流れが変わるってのは、つまり
しょせんは「虚構」だって自覚した時の冷静さが起こす「飽き」
55万もの入場者が、仮に「飽き」に走ったとして、
コミケが終わったら、(仮にね、仮に)
その終了は無視出来ない象徴的な意味を持つことになる。
ベルリンの壁崩壊ぐらいの。
特に今のオタク文化がはらんでる一種狂気的な熱気のようなものは
強すぎて却ってアンバランスじゃないですか。
ニコニコやようつべの普及で、若い世代もどんどん入ってきてる(いわゆるゆとり)
けど、若い世代が新しいムーブメントを作り出してる文化ではない。
むしろ概観して、既存のものを貪ってるだけに見える。
文化が、一過性の盛り上がりではなく
息の長いものとして持続するために必要なのは
学問的視点からの考察、研究の余地だと思うけど、
(大学ってのは、その意味でグダグダと文化の文化的価値を死守する場かも)
こういう分野に関しては、学術分野での考察が偏ってる。
その勢いから派生する経済的・文化的な影響力について述べていても
作品論的な研究は少ない。
エヴァや、宮崎アニメ程度じゃないかと思うけど。
その意味では、現在の殆どのコンテンツは、
オタク文化っていう大きなムーブメントを持続させるための、
一時しのぎとしてしか機能して無いように見えます。
それも含めて、ぐらぐらと不安定な盛り上がりだと思うのです。
なんか、
この本を読んで、
ついにギャルゲの美少女は、画面のこちら側の人々に対して
バイバイと手を振ったようなイメージが起こってならない。
それも、求められたから。
文学への侵入ってものに関しては、全然危機感は無いんだけども。
だって、記号の総体として描かれる物語は、
人間が描けないし。自然も描けない。
人間は記号の総体ではないし、自然も然り。
そのうち記号化に対して猛然と反逆し始める気がする。
メタ的なものもきっと否定していくでしょう。
第三者的な、メタな視点ではなく、
自分の目で見る現実を現実として認識することで、
虚構と現実との差別化を図るんじゃないでしょうか。
俺は何が言いたいのでしょう。
うん、今度ちゃんとまとめようw
いわゆるヲタク的サブカルチャーと
それが先導する新しいリアリズムの形、
およびそれに伴う文学への影響、
についての本。
物語そのものの存在意義ってものが薄れてきてるなあ、とは
うすうす思っていたところだけど、この本はそのあたりをずばり詳しく指摘してる。
物語がキャラクターやシチュエーションというものの『入れ物』として機能せず、
キャラクターが全く別の次元に移されて、動かされて、それでいてそれがウケテルっていう。
また、
サブカルチャーに影響される、物語の構造的変化
主にメタ的視点の積極的導入、についても述べてる。
オタクカルチャーでも物語を中核に置く、ラノベ、あるいはギャルゲの
物語の類型化、っていうのはこの本でも指摘されているところ。
キャラクター造形に特に力を入れてる場合が多いけども、
それは「物語的主題を語る上で必要性があるから」ではない。
物語と切り離して、独立した魅力を持つにいたった、あるいは持たされたキャラクターは
物語っていう「入れ物」から取り出されて、遊ばれる。
じゃあキャラクターは類型化してないかって言われると、勿論そんなことは無いけれど
大塚英志が「キャラクター小説の作り方」で述べてるように、
あるいは手塚治がやっちゃったように、
記号化された特徴の組み換え、によって量産されている。
メタと記号、がこの本のキーワードかと。
そもそも、
メタっていうのが僕は嫌いです。
あれは一種の冗談としてやるべき。
ドラえもんの映画のどれかに「のび太は映画になると云々」っていう自己言及的な台詞があるけど
あーゆーのは、作品と観客の感情的接続を切り離してしまうと思うんですよね。
突き放し、っていうか。
凄い、冷める。
まあそこでグッと冷めるのが、ある種の冗談として成立する場合があるのだけど。
エヴァの旧劇場版が全身全霊でやった自己言及、
しょせんこれはウソッパチの物語だ、そんなのに必死になるな気持ち悪い!
と吐き捨てることで、観客に「作品と、それを見る自分」との距離を自覚させた。
物語の方から、観客を「拒絶」する。
あれは当時衝撃的だったし、今でも衝撃的だと思う。
本来あるべき形、登場人物に自己を重ねて、同じ感情を共有して、
物語世界の謎解きに一生懸命になって、っていう事を、
物語自体が「そんな事してないで表出ろおまえら」って言っちゃったのだから。
ところが
オタクってのはマゾなのか何なのか
懲りずに同じような突き飛ばしを求めてるんだろうか。
物語を楽しむ人、と物語そのものの関係を
構造的主題として取り入れた作品が、
ラノベとかゲームで増えてるんだと。
それってある意味では
作品の枠組みの外にある自分について自覚的なわけで、
凄く、冷めてる状態だと思う。
「お前の席、ねーから」っていうのと同じで、
キャラクターに感情移入することを許されず、
第三者的視点で作品に触れていることに自覚的。
で、
都合よく、作品っていう箱の中から、お気に入りのものを取り出して、
外に連れ出して遊ぶ。
同人誌市場、代表的な例としてのコミックマーケットは
年々入場者数を増やしていってる。
この本の著者は、
記号の集合体としての物語、
また「読者」と「作品」の関係性を再定義するような構造の物語が
今後、もっと数を増して、文壇を席巻する可能性もなきにしもあらず、的なことを書いてる。
個人的には、
それに対する危機感より
いよいよオタク文化終わるんじゃね?って危機感の方が強い。
作品に対して凄く冷めてて、
お気に入りの登場人物だけを連れ出して、弄んで、
登場人物が依拠する物語そのものをズタズタに切り刻んでしまう、ってこと自体、
僕はあんまり好きじゃないんだけど(原作厨ってヤツです)
まあこれは昔からあるからいいとしてさ。
メタ的視点が受け入れられてるってことに、
一種の冷めた感じ、うら寂しさみたいなものがあると思う。
作品、言い換えればコンテンツとの距離感を自覚している寂しさ。
しょせんこれは虚構なのだと感じた時の、あのバカバカしさみたいなものが
消費者をオトナに変えてしまうと思う。
その冷静な理性を抱えたまま、一方では
ご執心なキャラで遊んでいる。
この矛盾した感情は、今後、理性的な方向にしか傾かない。
「キャラで遊ぶ」典型としての同人誌市場は発展し続けているけど、
その発展は爆弾的な危うさしか抱えていない。
あまりに多くの人をその流れに巻き込みすぎた。
だから、流れが変わった瞬間、その打撃はすさまじいことになるはず。
流れが変わるってのは、つまり
しょせんは「虚構」だって自覚した時の冷静さが起こす「飽き」
55万もの入場者が、仮に「飽き」に走ったとして、
コミケが終わったら、(仮にね、仮に)
その終了は無視出来ない象徴的な意味を持つことになる。
ベルリンの壁崩壊ぐらいの。
特に今のオタク文化がはらんでる一種狂気的な熱気のようなものは
強すぎて却ってアンバランスじゃないですか。
ニコニコやようつべの普及で、若い世代もどんどん入ってきてる(いわゆるゆとり)
けど、若い世代が新しいムーブメントを作り出してる文化ではない。
むしろ概観して、既存のものを貪ってるだけに見える。
文化が、一過性の盛り上がりではなく
息の長いものとして持続するために必要なのは
学問的視点からの考察、研究の余地だと思うけど、
(大学ってのは、その意味でグダグダと文化の文化的価値を死守する場かも)
こういう分野に関しては、学術分野での考察が偏ってる。
その勢いから派生する経済的・文化的な影響力について述べていても
作品論的な研究は少ない。
エヴァや、宮崎アニメ程度じゃないかと思うけど。
その意味では、現在の殆どのコンテンツは、
オタク文化っていう大きなムーブメントを持続させるための、
一時しのぎとしてしか機能して無いように見えます。
それも含めて、ぐらぐらと不安定な盛り上がりだと思うのです。
なんか、
この本を読んで、
ついにギャルゲの美少女は、画面のこちら側の人々に対して
バイバイと手を振ったようなイメージが起こってならない。
それも、求められたから。
文学への侵入ってものに関しては、全然危機感は無いんだけども。
だって、記号の総体として描かれる物語は、
人間が描けないし。自然も描けない。
人間は記号の総体ではないし、自然も然り。
そのうち記号化に対して猛然と反逆し始める気がする。
メタ的なものもきっと否定していくでしょう。
第三者的な、メタな視点ではなく、
自分の目で見る現実を現実として認識することで、
虚構と現実との差別化を図るんじゃないでしょうか。
俺は何が言いたいのでしょう。
うん、今度ちゃんとまとめようw




